(沿革)

研究室の歴史は、1903年の京都帝国大学福岡医科大学の創立時に設置された解剖学教室に遡ります。1904年に解剖学教室は二講座制となり、1906年にドイツ帝国から帰朝した櫻井恒次郎が本研究室の原点である解剖学第二講座の初代教授に着任しました。1911年に九州帝国大学の創立に伴い九州帝国大学医科大学解剖学教室となり、戦後は九州大学医学部解剖学教室として、医学教育と研究を担ってきました。櫻井恒次郎の死後、解剖学第二講座を担当してきたのは、平光吾一、金関丈夫、山田英智、永井昌文、柴田洋三郎の歴代教授であり、2011年に神野尚三が第七代教授に着任し、講座名変更を経て現在に至っています。この間、1979年に解剖学第二講座の研究室は改修された旧内科棟 (現基礎研究A棟) の二階に移転し、京都帝国大学福岡医科大学創立時に建てられた解剖学講堂は、九州大学医学部同窓会によって旧中央講堂の隣に移築されました。九州大学最古の木造建築物でもあった貴重な解剖学講堂は病院キャンパスの再整備に伴い、1997年に取り壊しの憂き目に会いますが、九州大学医学部同窓会のご尽力によって医学歴史館として2015年に再建されています。

研究室の現在のスタッフは、教員4名、技術職員3名、事務補佐員1名で構成されています。研究における特徴は、シナプスレベルから組織・細胞レベルまでの微細構造や分子発現を正確に計測することを可能にするハイスループット (高効率) 画像解析のシステムを独自に開発していることです。近年の研究は、精神・神経疾患モデルマウスにシフトし、海馬神経回路の微細構造解析や行動薬理学的解析、分子生物学的解析、化学遺伝学的解析、電気生理学的解析などを組み合わせる集学的研究を推進しています。教育においては、医学部における肉眼解剖学と神経解剖学の講義・実習を担当しています。全ての医学の基礎である解剖学の学修をより充実させるため、Team-Based Learningや反転学習の導入、電子掲示板による実習の見える化、九州大学病院からのスーパーバイザーの招聘など、様々な改革に取り組んでいます。

(論文概説)

  1. 行動薬理学的手法で作出した精神・神経疾患モデルマウスに関する論文 2011年に研究室を立ち上げるにあたり、どのような精神・神経疾患モデルマウスを導入するかどうか、様々な検討を行いました。当時は (現在は必ずしもそうでは有りませんが)、神経科学研究のフィールドでは、遺伝子を改変した精神・神経疾患モデルの解析が主流でした。しかしながら、精神科の現場では、遺伝子異常で説明できるケースは稀であり、発達や環境に問題を抱えているケースの方が一般的です。このため我々は、薬物投与やストレス暴露、発達・飼育環境の制御などによる行動薬理学的手法を用いて、精神・神経疾患モデルを作出することにしました。当初は老化モデルマウスの解析が中心で、成体海馬神経新生の加齢変化や (論文 41)、アストロサイトの分子プロファイルの加齢変化 (論文32)、オリゴデンドロサイト新生の加齢変化 (論文41)、などの報告を行いました。その後、飼育環境の制御やてんかんモデルの確立などに取り組み、“豊かな環境”による成体海馬神経新生現象の促進にはコンドロイチン硫酸を介するメカニズムが存在することや (論文57)、てんかんモデルマウスの海馬にはシナプスとのコンタクトが多い特殊なミクログリアが存在すること (論文59)、などを明らかにしました。さらに最近は、うつ病モデルマウスの海馬において、ポリシアル酸が抗うつ薬のターゲットであること (論文62)、てんかんモデルマウスに生じる認知機能障害はリポ多糖によるプレコンディショニングで軽減される可能性があること (論文63)、統合失調症モデルマウスでは、海馬のパルブアルブミンニューロンのサブクラスバランスに異常が見られること (論文64) などについて報告を行っています。
  2. ニューロン・グリア連関に関する論文 2007年にドイツとの国際共同研究によって、海馬のミクログリアが排他的ドメイン構造を有することを発見したことをきっかけに (論文19)、グリア細胞の研究を開始しました。2009年にはうつ病治療に用いられる電気痙攣刺激による海馬ミクログリアの活性化機序を報告しています (論文27)。生理学研究所の鍋倉淳一教授との共同研究では、電子顕微鏡を用いてミクログリアの突起がシナプスにコンタクトを形成していること発見しました (論文24)。さらに近年は、多変量解析などの統計学的手法をグリア細胞の形態学的解析に導入しており、2013年には軸索損傷モデルの活性化ミクログリアの新規サブタイプを発見しました (論文39)。最近の研究では、ケラタン硫酸を発現しているミクログリアが、てんかん発症後の海馬の異常シナプス増生の抑制に関わる可能性や (論文59)、ラット海馬のケラタン硫酸を発現しているミクログリアは静止型ミクログリアでありながら、独自の形態学的サブタイプに属することを報告しています (論文65)。
  3. GABAニューロンのサブクラス分類に関する論文 1996年以来、海馬のGABAニューロンのサブクラス分類の研究を続けています。1999年から4編の論文を発表したシリーズの研究では (論文2, 3, 6, 11)、カルシウム結合タンパクや神経ペプチドの発現様式と内側中隔核への投射様式などから、GABAニューロンのサブクラス構成が海馬の長軸方向で異なり、神経回路が異なる制御を受けていることを発見しました。2007年には、英国Oxford大学のPeter Somogyi教授の研究室において、海馬の新規投射型GABAニューロンの発見に成功しました (論文20)。近年は、海馬のGABAニューロンのサブクラス特異的に形成されているペリニューロナルネットの研究に取り組み、2015年から現在までに、3編の論文を発表しています (論文43, 51, 52)parative Neurology誌に報告しています (論文59)。
  4. 成体海馬神経新生に関する論文 2008年頃から成体海馬神経新生の研究に取り組んでいます。2011年から2014年にかけて、情動に関わる腹側海馬より認知に関わる背側海馬で新生ニューロンの産生が活発なこと (論文30)、成体海馬の神経幹細胞から分化したアストロサイト前駆細胞にはカルシウム結合タンパク質であるS100A6が発現していること (論文40)、成体海馬のオリゴデンドロサイト新生の加齢変化は神経新生に類似した長軸方向の差異が存在すること (論文41) などを報告しています。さらに、成体海馬神経新生の制御機序の研究にも取り組み、加齢マウスにおける新生ニューロンの減少は背側海馬よりも腹側海馬で顕著であることや (論文31)、“豊かな環境”による成体海馬神経新生の促進は海馬歯状回のコンドロイチン硫酸の増加によるものであることなどを報告しています (論文57)。その成果は、朝日新聞デジタルや日本経済新聞電子版、科学新聞などのメディアにも掲載されました。また最近、新たな抗うつ薬として注目されているケタミンが腹側海馬の成体神経新生を細胞種選択的に促進するメカニズムを発見し、報告しています (論文60)。
  5. 植物由来エストロゲン類縁体に関する論文 更年期の女性では、卵巣からのエストロゲンの分泌が低下することで自律神経系のバランスが崩れ、ほてりや発汗、肩こりなど、様々な身体症状が現れることが知られています (更年期障害)。また、エストロゲンには、海馬のシナプスに作用し、認知機能を向上させることも報告されています。このことは、更年期の女性において認知機能が低下するリスクと関連があると考えられています。更年期障害の治療では、エストロゲンやプロゲステロンの補充療法が有効です。しかし日本では、ホルモン製剤への抵抗感などから、多くの女性がホルモン補充療法を受けていません。その一方で、エストロゲンと同様の作用を持つことが知られているイソフラボン、セサミンなどの植物由来エストロゲン類縁体をサプリメントとして摂取することで更年期障害の症状を緩和できるのではないか、という期待が高まってます。しかしながら、植物由来エストロゲン類縁体の有効性や安全性についての科学的検討は進んでいません。このため我々は、イソフラボンやセサミンの脳への作用に関する研究にも取り組んでいます。これまでに、ダイゼイン (イソフラボンの一種) には加齢マウスの成体海馬神経新生を細胞種選択的に促進する可能性があることや (論文47)、ゲニステイン (イソフラボンの一種) には酸化的ストレスによるミエリン障害を緩和する可能性や (論文58)、心理的ストレスによる海馬の神経炎症を軽減する可能性があること (論文67)、などについて報告を行っています。